白川情報館

白川流域 水防災・水環境フォトラリー (下流域:熊本市編)

白川(しらかわ)石刎(いしばね)
         (熊本市西区 小島公園内 P有・トイレ有) 
小島(おしま)船着場跡(ふなつきばあと)
         (熊本市西区 小島公園内 P有・トイレ有) 
 
 昭和(しょうわ)30(1955)(ねん)ごろまでの白川(しらかわ)は、現在(げんざい)小島橋際(おしまはしぎわ)から(みぎ)蛇行(だこう)し、この公園(こうえん)(つか)にそって(なが)れていました。
 (かめ)甲羅(こうら)のように(いし)()()げて(つく)ったものを「石刎(いしばね)」といい、加藤清正公(かとうきよまさこう)治水土木工事(ちすいどぼくこうじ)によく(もち)いた工法(こうほう)で、(かわ)水勢(すいせい)(よわ)めて川岸(かわぎし)侵食(しんしょく)から(まも)るための構造物(こうぞうぶつ)です。
 この周辺(しゅうへん)には石刎(いしばね)が4()ほどあったそうですが、現在(げんざい)はこの1()だけが(のこ)っています。
 なお、白川(しらかわ)は、未曽有(みぞう)被害(ひがい)()した昭和(しょうわ)28(1953)(ねん)の「6.26」大水害(だいすいがい)()に30年以降(いこう)河川改修(かせんかいしゅう)され、(いま)のように有明海(ありあけかい)()っすぐ(なが)れるようになりました。
小島の船着場の石段(馬角石を含む)もそのまま残されています。




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 石刎(いしばね)のすぐ(ちか)くには、(おな)(たか)さにきちんと()まれた石垣(いしがき)(のこ)っています。
 ここは、以前(いぜん)小島(おしま)船着場(ふなつきば)でした。小島(おしま)は、江戸(えど)明治時代(めいじじだい)は、熊本城下(くまもとじょうか)長崎(ながさき)江戸(えど)とを(むす)物資(ぶっし)集散地(しゅうさんち)として(さか)えた港町(みなとまち)です。荷揚(にあ)げ・集荷(しゅうか)されたものは、百貫往還(ひゃっかんおうかん)(とお)り、(うま)などで城下(じょうか)(はこ)ばれていたそうです。たくさんの荷物(にもつ)人々(ひとびと)()()でにぎわっていたそうです。幕末(ばくまつ)秋津(あきつ)横井小楠(よこいしょうなん)(たず)ねた坂本龍馬(さかもとりょうま)もここから(ふね)()り、有明海(ありあけかい)(わた)って島原(しまばら)上陸(じょうりく)し、長崎(ながさき)()かっています。
 船着場跡(ふなつきばあと)は、石垣(いしがき)だけでなく、(ふね)()()りするための石段(いしだん)もそのまま(のこ)されています。石段(いしだん)石垣(いしがき)注意(ちゅうい)(ふか)くみると、宇土半島(うとはんとう)産出(さんしゅつ)する『馬門石(まかどいし)』が使(つか)われていることに()づきます。
 石垣(いしがき)(うえ)には、(なん)(しょ)も『えびす(さま)』が(まつ)られています。(ふね)安全航行(あんぜんこうこう)商売繁盛(しょうばいはんじょう)(ねが)った人々(ひとびと)(おも)いがこもっています。
 船着場(ふなつきば)から()える土蔵白壁(どぞうしらかべ)(づく)りの建物(たてもの)とレンガ(づく)りの給水塔(きゅうすいとう)(えん)(とつ)は、1854(ねん)安政元年(あんせいがんねん)嘉永(かえい)7(ねん)創業(そうぎょう)濱田醤油(はまだしょうゆ)です。国指定登録有形文化財(くにしていとうろくゆうけいぶんかざい)指定(してい)されています。
 

     

 1872(明治(めいじ)5)(ねん)6(がつ)17(にち)明治天皇(めいじてんのう)熊本行幸時(くまもとぎょうこうじ)もこの()上陸(じょうりく)され、西郷隆盛(さいごうたかもり)同行(どうこう)したそうです。天皇(てんのう)がお(とま)りになった米村家(よねむらけ)別邸(べってい)が「小島(おしま)行在所跡」(熊本市史跡(くまもとししせき)文化財指定(ぶんかざいしてい))としてついこの(あいだ)まで(のこ)されていましたが、2016(平成(へいせい)28)(ねん)熊本地震(くまもとじしん)被害(ひがい)()()(こわ)されて、現在(げんざい)はありません。西郷隆盛(さいごうたかもり)は、(ちか)くの長塩邸(ながしおてい)宿泊(しゅくはく)されたそうです。