白川わくわくランド情報館(じょうほうかん)

白川流域 水防災水環境 フォトラリー


子飼橋~龍神橋・渡鹿堰界隈   散策(さんさく)マップ


 この散策(さんさく)マップは、子飼橋(こかいはし)龍神橋(りゅうじんはし)渡鹿堰(とろくぜき)にかけた白川沿線(しらかわえんせん)水防災(みずぼうさい)水環境(みずかんきょう)(かか)わる施設(しせつ)史跡(しせき)一部(いちぶ)紹介(しょうかい)しています。
令和(れいわ)2年11月15日に、紙面(しめん)作成(さくせい)いたしました。その()令和(れいわ)3年1月15日に(だい)2(はん)作成(さくせい)いたしましたものを、WEB(ウェブ)(よう)(つく)りなおしたものです。
インターネット上で、このサイトをみながら、現地(げんち)訪問(ほうもん)される(かた)のために、紹介(しょうかい)している場所(ばしょ)のQRコードも掲載(けいさい)いたしております。


参考文献: ・加藤清正公の川づくり・まちづくり(平成7年 建設省熊本工事事務所)・熊本県の地名(1985年 平凡社)・大井手の楽校フィールドノート(熊本市中央区役所) ・熊本市上下水道局ホームページ



地図(ちず)北側(きたがわ)をまず紹介(しょうかい)します。
白川わくわくランド発~白川の右岸側

各項目(かくこうもく)最下欄(さいからん)のQRコードは、地図上(ちずじょう)位置(いち)表示(ひょうじ)してくれます。スマートフォン等で撮影(さつえい)してお使(つか)いください。

白川地域防災センター 
(しらかわちいきぼうさいセンター)
白川わくわくランド
中央区東子飼町 子飼橋袂右岸(P有・トイレ有)
 一 夜 塘
(いちやども)


中央区黒髪 子飼橋上流右岸(P無・トイレ有)
上河原公園
(かみかわらこうえん)


中央区黒髪 熊大工学部裏右岸(P無・トイレ有)
   
 平成(へいせい)12年に()てられ、通称(つうしょう)白川(しらかわ)わくわくランド』と()ばれています。正式(せいしき)名称(めいしょう)は、白川(しらかわ)地域(ちいき)防災(ぼうさい)センターです。
 館内(かんない)(かい)は、たくさんの水槽(すいそう)(なら)び、白川(しら)(おも)()(もの)()きたまま()ることができます。展示室(てんじしつ)には阿蘇(あそ)カルデラを(ふく)白川流域(しらかわりゅういき)全体(ぜんたい)(おお)きなジオラマを中央(ちゅうおう)に、白川(しらかわ)()()ちや治水(ちすい)利水(りすい)歴史(れきし)熊本(くまもと)地下水(ちかすい)秘密(ひみつ)流域(りゅういき)生息(せいそく)する()(もの)立野(たての)ダムに(かん)する資料(しりょう)、626白川(しらかわ)大水害(だいすいがい)様子(ようす)湧水地(ゆうすいち)景勝地(けいしょうち)(など)写真(しゃしん)展示(てんじ)し、紹介(しょうかい)しています。
 2(かい)には、70人収容(しゅうよう)多目的室(たもくてきしつ)や30人収容(しゅうよう)談話室(だんわしつ)(けん)図書室(としょしつ)があり、2階通路(かいつうろ)には、白川(しらかわ)古流路地図(こりゅうろちず)昭和(しょうわ)28年の626大水害(だいすいがい)平成(へいせい)24年北部九州豪雨(ほくぶきゅうしゅうごうう)平成(へいせい)28年熊本地震(くまもとじしん)被害(ひがい)写真(しゃしん)(みどり)区間(くかん)大甲橋(たいこうはし)明午橋(めいごはし)左岸(さがん))の利用(りよう)様子等(ようすなど)展示(てんじ)しています。
 白川流域(しらかわりゅういき)学習(がくしゅう)をする『寺子屋(てらこや)』や、様々(さまざま)出前講座(でまえこうざ)(おこな)っており、大人(おとな)から()どもまでたくさんの(かた)利用(りよう)していただいています。白川(しらかわ)に、あるいは河川(かせん)(した)しみをもってもらいながら、防災(ぼうさい)自然環境(しぜんかんきょう)(かんが)える施設(しせつ)です。災害時(さいがいじ)は、白川(しらかわ)(かん)する防災情報(ぼうさいじょうほう)提供(ていきょう)をし、また地域防災活動(ちいきぼうさいかつどう)拠点(きょてん)となります。
  
 蚕養(こかい)(こかい)界隈(かいわい)は、白川(しらかわ)洪水(こうずい)(なや)まされていたそうです。加藤清正公(かとうきよまさこう)入国(にゅうこく)により、土居(どい)(きず)かれ、洪水(こうずい)()ったそうです。
 しかし、その()200年ほど()った寛政(かんせい)8年(1796年)6月の大洪水(だいこうずい)決壊(けっかい)して大被害(だいひがい)()したそうです。(だい)8(だい)細川(ほそかわ)藩主(はんしゅ)斉茲公(なりしげこう)は、復旧工事(ふっきゅうこうじ)(いそ)がせ、8月~年末(ねんまつ)までに完成(かんせい)したそうです。当時(とうじ)は、豊年塘(ほうねんども)()ばれていたそうですが、当時(とうじ)として工期(こうき)(きわ)めて(みじか)完成(かんせい)したということで『一夜塘(いちやども)』と()ぶようになった、と熊本市(くまもとし)による説明版(せつめいばん)にあります。
 (べつ)資料(しりょう)では、この普請時(ふしんじ)人夫(にんぷ)(かず)本坪井(ほんつぼい)(まち)(かかり)新坪井(しんつぼい)(まち)(かかり)から()わせて6,108人だそうで、9月17日の夜半(やはん)から翌日(よくじつ)18日の(ひる)()(どき)午後(ごご)2時)(ごろ)までの一夜(いちや)のうちに完成(かんせい)したとあります。(「惣月行事記録抜書」熊本大学蔵)
 現在(げんざい)は、堤防(ていぼう)一部(いちぶ)(のこ)され、自然石(しぜんせき)史蹟碑(しせきひ)()てられています。当時(とうじ)の白川は、子飼公園(こかいこうえん)部分(ぶぶん)(かわ)(なか)で、この一夜塘(いちやども)まで(おお)きく湾曲(わんきょく)していたことがわかります。
  
   堤防の上は、公園化され、トイレや水飲み場がある。
 
 この(あた)りは、江戸時代(えどじだい)には(おお)きな()(いし)(すな)がたまっている場所(ばしょ))があったそうで、(はたけ)墓地(ぼち)として河原(かわら)(ひら)きになっていたそうです。その(なか)清正公(きよまさこう)時代(じだい)石刎(いしばね)(きず)かれていたそうです。いったいこの石刎(いしばね)(なん)(やく)()つのか、人々(ひとびと)(なが)(あいだ)不思議(ふしぎ)(おも)っていたそうです。
 寛政(かんせい)8年(1796年)の大洪水(だいこうずい)でその(なぞ)()けたそうです。上河原(かみかわら)()にも濁流(だくりゅう)()()せて一面(いちめん)(かわ)となってしまった(とき)この石刎(いしばね)城下町(じょうかまち)反対(はんたい)方向(ほうこう)(みず)()ねたそうです。おかげで熊本(くまもと)中心部(ちゅうしんぶ)(なん)(のが)れることができ、人々(ひとびと)清正公(きよまさこう)水理(すいり)(たい)する深謀遠慮(しんぼうえんりょ)工法(こうほう)(たく)みさに驚嘆(きょうたん)したそうです。
 (いま)は、上河原公園(かみかわらこうえん)()(のこ)るのみです。公園(こうえん)(となり)には熊本刑務所(くまもとけいむしょ)(びょう)(お(はか))がひっそりとたたずんでいます。


  熊本刑務所の廟
     

 龍神橋
(りゅうじんはし)


中央区黒髪・大江 (P無・トイレ松原公園内に有)
 保田窪放水路
(ほたくぼほうすいろ)


中央区新南部 (P無・トイレ無)
   
左:懐かしい先代の竜神橋(水道局HPより)  右:新しい龍神橋(大江側より撮影)

  白川の川幅拡張(かわはばかくちょう)にともない、この橋も(あたら)しく架橋(かきょう)されました。
 もともと龍神橋(りゅうじんはし)は、水道管(すいどうかん)(わた)すための(はし)で、先代(せんだい)(はし)は、昭和(しょうわ)34(ねん)(かけ)けられました(写真)。「(せま)くて(くるま)離合(りごう)ができない!」と苦情(くじょう)(おお)()きましたが。水道管(すいどうかん)にそって、(ひと)自転車(じてんしゃ)・バイクが(とお)るための(はし)でしたので、(ひろ)くはありませんでした。
 熊本市(くまもとし)上水道(じょうすいどう)は、明治(めいじ)42年(1909年)に計画(けいかく)()てられましたが、水利関係(すいりかんけい)から難航(なんこう)しました。大正(たいしょう)11年(1922年)、八景水谷(はけのみや)水源地(すいげんち)立田山(たつだやま)配水池(はいすいち)とする計画案(けいかくあん)許可(きょか)()て、大正(たいしょう)12年6月より工事(こうじ)(はじ)め、大正(たいしょう)13年(1924年)11月27日、ついに上水道(じょうすいどう)供給(きょうきゅう)(はじ)まりました。
 その()熊本市(くまもとし)人口増加(じんこうぞうか)により、八景水谷水源(はけのみやすいげん)(みず)だけでなく、白川の(みなみ)健軍水源地(けんぐんすいげんち)(みず)立田山配水池(たつだやまはいすいち)(おく)るために、白川に水道橋(すいどうきょう)()けることになりました。
 (はし)名前(なまえ)は、龍神橋(りゅうじんはし)(みず)神様(かみさま)とされる龍神(りゅうじん)からとられたのか、当時(とうじ)龍田地区(たつだちく)()ばれていた現在(げんざい)黒髪(くろかみ)と、神水地区(くわみずちく)(むす)水道管(すいどうかん)なので一文字(いちもじ)ずつとって龍神(りゅうじん)とつけられたのか…。
   
 慶長(けいちょう)13年(1608年)加藤清正公(かとうきよまさこう)は、馬場楠村(ばばくすむら)現在(げんざい)菊陽町(きくようまち)馬場楠(ばばくす))の白川(しらかわ)に、ななめの(せき)(きず)き、用水路(ようすいろ)(つく)りました。「馬場楠井手(ばばくすいで)」と()ばれる12㎞の用水路(ようすいろ)(みず)は、ここで白川(しらかわ)にもどります。
 馬場楠井手(ばばくすいで)途中(とちゅう)には、清正公(きよまさこう)神業(かみわざ)とも()われる「(はな)ぐり井手(いで)」があります。馬場楠井手(ばばくすいで)により、託麻郡(たくまぐん)4か(そん)益城郡(ましきぐん)3か(そん)合志郡(こうしぐん)2か(そん)の95(ちょう)(あまり)火山灰台地(かざんばいだいち)畑地(はたち)水田化(すいでんか)され、その生産力(せいさんりょく)は3(ばい)になったと()われています。
 保田窪放水路(ほたくぼほうすいろ)は、託麻(たくま)西原地区(にしばるちく)住宅化(じゅうたくか)にともない、藻器堀川(しょうけぼりがわ)加勢川(かせがわ))があふれるのを(ふせ)ぐために(つく)られました。馬場楠井手(ばばくすいで)(みず)藻器堀川(しょうけぼりがわ)一部(いちぶ)(みず)一緒(いっしょ)になって白川(しらかわ)(なが)れています。
  
放水路沿いの保田窪天満宮と、天満宮参道 宮の前橋から上流を望むとソメイヨシノ並木が続く。
   


地図(ちず)南側(みなみがわ)紹介(しょうかい)します。


各項目(かくこうもく)最下欄(さいからん)のQRコードは、地図上(ちずじょう)位置(いち)表示(ひょうじ)してくれます。スマートフォン等で撮影(さつえい)してお使(つか)いください。

 子飼橋
(こかいはし)


中央区東子飼町(P・トイレは白川わくわくランドへ))
626水害地蔵堂
(しらかわだいすいがいじぞうどう)

中央区大江 (P・トイレ無) 
石刎群
(いしばねぐん)

中央区大江 (P・トイレ無)
 
 子飼(こかい)橋付近(はしふきん)は、奈良時代(ならじだい)から官道(かんどう)(今でいう国道(こくどう))として往来(おうらい)(さか)んでした。子養(こかい)(わたし)()ばれて(わた)(ふね)()かれており、明治(めいじ)になって賃橋(ちんばし)通行料(つうこうりょう)()(はし))がかけられましたが、それも明治(めいじ)33年(1900年)の大水害(だいすいがい)流失(りゅうしつ)しました。大正(たいしょう)14年(1925年)熊本市(くまもとし)はその不便(ふべん)解消(かいしょう)するため鉄筋(てっきん)コンクリート(きょう)架橋(かきょう)し、地名(ちめい)(ちな)んで子飼橋(こかいはし)名付(なづ)けました。昭和(しょうわ)28年(1953年)の大水害(だいすいがい)(さい)しては流木等(りゅうぼくなど)()まってダム()しましたが、(はし)(こわ)れず、そのため大江側(おおえがわ)橋際(はしぎわ)決壊(けっかい)して大被害(だいひがい)()しました。そこで昭和(しょうわ)32年(1957年)、橋桁(はしげた)()らしたアーチ(しき)鋼鉄(こうてつ)(きょう)()()えられました。
 現在(げんざい)(はし)は、平成(へいせい)27年に完成(かんせい)(はし)(はば)拡張(かくちょう)されて、車道(しゃどう)車線(しゃせん)歩道(ほどう)自転車道(じてんしゃどう)もあり、(はし)中央部(ちゅうおうぶ)には休憩所(きゅうけいじょ)としての広場(ひろば)もあります。
 (かわ)(なか)には、大正時代(たいしょうじだい)(つく)られた(はし)橋桁(はしげた)(のこ)されて、現在(げんざい)(はし)(うえ)から(なが)めることができます。また、御影石(みかげいし)(つく)られていた親柱(おやばしら)子飼(こかい)スクランブル交差点(こうさてん)両側(りょうがわ)(のこ)されています。
  
  
昭和32年架橋の子飼橋と親柱 右:大正14年架橋の橋桁
 
 昭和(しょうわ)28年(1953年)は(あめ)(おお)(とし)でした。()(つづ)(あめ)白川(しらかわ)はあちこちで越水(えっすい)したり、(はし)家屋(かおく)()(なが)したりして、一気(いっき)熊本市(くまもとし)へと激流(げきりゅう)がくだってきました。
 当時(とうじ)としては頑丈(がんじょう)だった子飼橋(こかいばし)でせき()められた(みず)は、()()(うしな)い、大江側(おおえがわ)大地(だいち)(けず)って(なが)れました。そのせいで200人以上(いじょう)方々(かたがた)(いのち)(うば)われました。この水害(すいがい)から68年が()ぎましたが、()くなられた方々(かたがた)(れい)(とむら)い、水害(すいがい)教訓(きょうくん)(わす)れないために、毎年(まいとし)6月26日には慰霊祭(いれいさい)(もよお)されています。
 この地蔵堂(じぞうどう)(かたわ)らには、水害当時(すいがいとうじ)写真(しゃしん)被害状況(ひがいじょうきょう)陶板(とうばん)(しる)した水害記録碑(すいがいきろくひ)があります。((おな)記録碑(きろくひ)右岸側(うがんがわ)白川(しらかわ)わくわくランドの(まえ)にも設置(せっち)されています。)
 現在(げんざい)堤防(ていぼう)河川敷(かせんしき)()りるスロープは、令和(れいわ)2年3月に改修(かいしゅう)完成(かんせい)しました。
 
  白川大水害記録碑
  
   昭和28年白川大水害時の子飼橋(国土交通省所蔵)
 
 (かわ)はカーブすると外側(そとがわ)がぶつかる(みず)(いきお)いで(けず)られます。せっかく(つく)った堤防(ていぼう)時間(じかん)とともに浸食(しんしょく)()けてしまいます。
 鉄筋(てっきん)コンクリートもなかった時代(じだい)加藤清正公(かとうきよまさこう)は、(みず)(いきお)いをおさえて(きし)(まも)ったり、(なが)れを()(もど)したり、大石(おおいし)()めたりするために、『石刎(いしばね)』を多用(たよう)しました。(きし)から(かわ)(なか)()()した石積(いしづ)みの防波堤(ぼうはてい)()えます。さまざまな角度(かくど)(なが)さを()えたり、あるいは(かわ)中央部(ちゅうおうぶ)石積(いしづ)みがされたりと、(おお)くの工夫(くふう)がなされていたそうです。
 現在(げんざい)もこの清正公(きよまさこう)治水対策(ちすいたいさく)にならって、白川(しらかわ)(おお)きく湾曲(わんきょく)する大江側(おおえがわ)左岸(さがん))には、18()石刎(いしばね)設置(せっち)されています。堤防(ていぼう)(した)遊歩道(ゆうほどう)(ある)くと、(なが)れてくる(みず)(かわ)中央(ちゅうおう)()(もど)されたり、(なが)れが(よわ)まった石刎(いしばね)(うし)(がわ)(なが)れを()けて一休(ひとや)みする(さかな)たちの姿(すがた)間近(まぢか)にみることができます。

 


  川の水を中央部へ押し戻している石刎
     

 水分神社・渡鹿菅原神社
(みくまりじんじゃ・とろくすがわらじんじゃ)

中央区渡鹿 (P有・トイレ無)
大井手
(おおいで)

中央区 渡鹿堰から九品寺まで(P無・トイレ松原公園他)
渡鹿堰
(とろくぜき)

中央区大江 (P・トイレ無)
  
  加藤清正公(かとうきよまさこう)は、白川(しらかわ)(みず)()いて灌漑用水路(かんがいようすいろ)(つく)ろうとしたとき、うまくいかず、渡鹿(とろく)井島玄蕃(いじまげんば)相談(そうだん)したそうです。玄蕃(げんば)は、早鷹天神(はやたかてんじん)に7日間(かかん)参籠(さんろう)したところ、一羽(いちわ)白鷹(はくたか)(あらわ)れて一枚(いちまい)(はね)()としたそうです。その場所(ばしょ)がこの渡鹿(とろく)で、ここから工事(こうじ)(はじ)めると大井手(おおいで)開墾(かいこん)成功(せいこう)したそうです。清正公(きよまさこう)は、渡鹿堰(とろくぜき)守護神(しゅごしん)水分神(みくまりしん))と早鷹天神(はやたかてんじん)菅原道真公(すがわらみちざねこう))の分神(ぶんしん)(ほこら)(もう)け、社地(しゃち)寄進(きしん)して渡鹿天満宮(とろくてんまんぐう)()てられたのだそうです。
 境内(けいだい)
には、清正公(きよまさこう)(せき)築造(ちくぞう)監督(かんとく)した(あと)という『清正公(きよまさこう)腰掛石(こしかけいし)』と、その時代(じだい)のものと(つた)えられる安山岩(あんざんがん)大石(おおいし)(のこ)っています。エノキとイチョウの大木(たいぼく)がそびえています。
 
   水分(みくまり)神社と荒神社  清正公の腰掛石
 
 大井手(おおいで)は、渡鹿堰(とろくぜき)から取水(しゅすい)した(みず)(なが)農業用水路(のうぎょうようすいろ)です。渡鹿(とろく)大江(おおえ)新屋敷(しんやしき)(なが)れて、安巳橋(やすみはし)安政橋(あんせいばし)とも()う)の下流(かりゅう)(ふたた)白川(しらかわ)合流(ごうりゅう)します。全長(ぜんちょう)2.6㎞です。
 途中(とちゅう)中央消防署(ちゅうおうしょうぼうしょ)付近(ふきん)『一(いち)井手(いで)(6.5㎞)』、白川小学校(しらかわしょうがっこう)付近(ふきん)で『()井手(いで)(6.4㎞)』、『(さん)井手(いで)(6.6㎞)』が分流(ぶんりゅう)し、現在(げんざい)でも、熊本市(くまもとし)南部(なんぶ)農地(のうち)(やく)250haを(うるお)現役(げんえき)用水路(ようすいろ)です。利用(りよう)された(みず)は、加勢川(かせがわ)緑川水系(みどりかわすいけい))に(そそ)ぎます。大津町(おおづまち)菊陽町(きくようまち)上井手(うわいで)下井手(したいで)馬場楠井手(ばばくすいで)とともに、『世界(せかい)かんがい施設(しせつ)遺産(いさん)』に指定(してい)されています。
 大井手(おおいで)は、地域(ちいき)()(かた)(やす)らぎを(あた)えてくれるふるさとの(かわ)です。以前(いぜん)は、都市化(としか)のなかでドブ(かわ)()われるまで(よご)されたこともありますが、住民(じゅうみん)と「大井手(おおいで)(まも)(かい)」の長年(ながねん)活動(かつどう)により、ホタルが()()うようになっています。
  
    大井手取水口と、渡鹿地区を流れる大井手
  
 加藤清正公(かとうきよまさこう)は、白川(しらかわ)(おお)きくこの渡鹿地点(とろくちてん)湾曲(わんきょく)するのをみて、城下(じょうか)(まも)るために(おお)きな石造(いしづくり)(せき)(きず)いて治水(ちすい)をはかり、平時(へいじ)(みず)をためて灌漑用水(かんがいようすい)にすることにしました。
 渡鹿堰(とろくぜき)はユニークな形状(けいじょう)をしていて、(かわ)(なが)れに(なな)めに()()しています。河川水(かせんすい)(すく)ない白川(しらかわ)(みず)効率的(こうりつてき)取水(しゅすい)できるように(つく)られており、洪水時(こうずいじ)には(はげ)しく(なが)れる流水(りゅうすい)(せき)下部(かぶ)湾曲部(わんきょくぶ)(やわ)らげる(はたら)きもあり、(たく)みな(せき)です。
 慶長(けいちょう)11~13年(1606~1608年)に築造(ちくぞう)され、白川水系(しらかわすいけい)最大規模(さいだいきぼ)灌漑用水(かんがいようすい)施設(しせつ)です。清正公(きよまさこう)創設時(そうせつじ)灌漑面積(かんがいめんせき)は、1083ha(ヘクタール)にも(およ)んだそうです。
 昭和(しょうわ)28年(1953年)の白川(しらかわ)大水害後(だいすいがいご)改築(かいちく)され、さらに平成(へいせい)24年北部九州豪雨(ほくぶきゅうしゅうごうう)ならびに平成(へいせい)28年熊本地震(くまもとじしん)により改修(かいしゅう)されています。樋門(ひもん)令和(れいわ)(がん)年5月に(あたら)しくなりました。

    大井手への樋門と取水口にある水神さん
   


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